昭和41年01月09日 夜の御理解
今日は、日曜でも御座いましたから、まぁ朝から本当に大変お広前が賑わいました。こんな有り難いしかも昨日、今日は一つの特色があったんです、あったその賑わい方でした。それはもう、先ほど先生方と話したんですけれども、今日はほんに、あすこしばらくは2、3時間ばかりはですね、もう椛目の人はもう、何人何組か位です。もう皆でその県外の方ばっかりです、もうあの九州、山口、それが九州も、もう鹿児島と宮崎の人がおらんぐらいじゃろうというくらいに、今日は遠方からばっかりでした。
それが皆、ここにその一同に集まって、そしてあの、私が12時に下がらせて頂いてから、そしてまだそこから皆さん一緒に御理解を頂くんですね。そして、その色々話させて頂きよりますとほら、今お話しよった人はこの人ですたいっち言うごたる風にその、まぁお話が尽きないような雰囲気の中にですね、あの、今日は賑わったんです。もう今日、だいたいもう二百三、四十名お届けがあっとるです。ん。
それがもう、その遠方からのそういうような人達、一時、あそこ2、3時間でしたけれども、沢山お参りがあっておりましたが、そんなこと、いや特別これ、まぁ椛目的なものでありますね、そういうような働きというのが。特別、県なら、県外のもんばかりばっとお広前に集まりなさるわけですね。というようなそのいわゆる一つ働きでしょうか、でその方達の御届けさせて頂きよりましたらね、「これが椛目の花じゃ」って神様が仰るです。ね、して見ると椛目に皆さん、おかげを頂いておる皆さんは、まぁ椛目の実という事になるのじゃないでしょうかね。
そりゃ確かに花ですね。やはり遠方から来るからには、色んなそのまぁ自家用車を連ねて来る人達もあれば、まぁ椛目まで遠方から来るんですから、やはりその第1装を皆着て、来ますからね。やっぱりそのお広前が、何とはなしに華やかなんですよ。成る程椛目の花だとこう思うですね。してみるとなら、他所からこう、見える方達が花ならば、内側の人達は実際を言うたら、その実だという事になるのじゃないでしょうかね。そこでその、その実を一つ検討してみらなきゃいけないという事ですね。
今日、婦人総代さんやらが、それから美登里会の方達が御祈念会がございまして、もうこれは日曜たんびにあっておるわけなんですね。そして今日は少年少女部会も参拝日になっておりましたから、もう何やかにやこの、皆の御祈念が終わったらまる少のまる少部会の方達。が終わったら、そのいわゆる県外の人達がお参りしてくるといったようにその、一きり一きりその、まぁおかげ頂いたんですけど、その私は何時も思いますことは、御祈念会の時に頂く御理解はもうきりがない事だと。何時も。
しかもこれは本当にテープにとっておかなきゃ惜しいね、って何時も言うくらいに、そのこれは、もう椛目で本当に、言わばこの人達こそ実だろうという人達ならば、頂かなければおられん御理解なんです、実を言うたら。今日なんかもう、まぁとったらしいんですけれども、テープが足りなくてから、もうほんのちょこっとしか入ってませんでしたが、その中にまぁ私今さっき申しました事ですけれどもね。
この正月にこの母が初夢に色々沢山頂いております中に、この総代さん方にこの、桂松平先生と私が二人で、そのこう短冊を皆にこう上げておるお夢を頂いた。男の総代さん方に、この渡しておるのがですね「今年こそ、花も実もある信心を頂きましょう」とその短冊に書いてあった。「今年こそ花も実もある信心を頂きましょう」と。婦人総代さん方にはね達にはね、「水晶のような心の信心を頂きましょう」て書いてあった。
して見ると、いかに婦人総代さん方の心の中に水晶のようなものじゃないかと言うことが分かるじゃない。言うなら濁り果てておるということなの。ならいかに、例えば、花を今年こそ、花も実のある信心を頂きましょう、という事。まぁ言うなら、まぁその花はあっても、実(じつ)はない、ということになるのじゃないか、と私は今朝方から、話させて頂いたことでした。
ね、だからこれは、私が見たところです、もう本当に感心な事だと、日曜たんびにこれだけの人が集まって、ね、一生懸命その御祈念を、ご造営のことが始まってこの方、これ続けられておるということ。実行委員の方達がご造営のことについてです、もう必ず3人4人の方達が現場に、いわゆる勤務を奉仕をなさるという事。もうこれだけでも私は、まぁ1ヵ月か2ヶ月くらいで、まぁ、尻細りになりゃせんかと思うたら、それどころじゃない益々やはり、そういう、そのおかげを頂いておられるという事。
総代さんの方達でも毎朝、朝の御祈念、そして特別の御届けをなさってから、そのことを願われるということ。まぁ私から見た目にゃ立派な総代さんである。立派な会員の皆さんであり、成る程その、実のある方達ばっかりだと言う風に感じるんですけれども、これをんなら神様の目からご覧になると、ね、気を回して頂くということ、水晶のような心にならせて頂くということを、今年こそは目指しにしようというのだから、濁っているちゅうことになるでしょう。花、実もあるというのですから、ね花があっても実がないならばです、実のないと言うことでしょう。
そこん所を、私は信心で本気で検討させて頂かなけれればならない。本当にこのお参りをさせて頂いておるからおかげを頂いておると言う、言うのではなくてですね、もう本当に切実なね、例えば祈りの中におかげを頂いておるということ。今日はその県外からのお参りに、中にです、下関の中林さんが、正月のお礼に出て見えられました。そして今日はお礼、お届けをされた、そして先に帰られたんですけども、先生これが甥の写真が出来ましたから、先生のこの引き出しの中にでも入れておいて下さい、とこう言われる。御結界に。
あの、生まれつきこの方は目が失明をしておる、失明というのは目がなかったんです、いわゆる、目が見えなかったんです、全然。それがまぁ勿論お医者さんだけじゃどうにも出来ない、けれどもあらゆるもう、私は思うんですけれどもね、所が色々これを考えさせてもらってから、思うんですが、おかげを頂いてからこの間立派に開眼のおかげを頂いておるんですけれども。
後から、これはよくご覧になって下さい。可愛らしい娘さんです。まぁ少しきょんきょろんとしておられるけれどもおかげ頂いている。お参りさせて頂いてから、神様に私お届け、お取次ぎさせて頂いたらですね、硬いつぼみを頂くんです。椿のつぼみを丁度この、小指くらいな。頭くらいな。それでもこのまましとにしときゃ、まぁこう枝が切ってあるですから、このまんまにしとけば、もう咲かんなりに、開かんなりにお終いになるという。けれどもご恵の水に付ければまた別ぞということを頂く。だからお恵みの水に付ければ、これは開くよと私が申しました。
ね、言うならば椛目にそういうお恵みの水があるということですよ。そのお恵みの水の中に、お互いが浸らせて頂いておる、ご恩を頂いておるということをです、言うなら、こちらの人でも、親先生あなたのお座りになるこの御結界の引き出しの中にでも、これを入れておいて下さいという。そういうようなもの。ただ私共がお参りをさせて頂いて、おかげを頂いて、お参りしよるけんおかげを頂くだけじゃない。例えばならこの方達の場合なんかは、何十年間の、いわば教団の中ででも、有名なご信者さんなんです。
そのこの方のおじいさんになる方なんかは、78に今年なられるそうですが、もう席の暖まるひまもない。全国またにかけて、その信心の共励のある場には、招かれてお話に行かれるというほどしの人。この娘さんのお父さんなんかは、本部の青年会の副委員長までしておられる。そりゃ立派です、この前見えましたですけれどね。そりゃもう、どこの先生でん勝たんごと話の上手です。
けれどもその自分の頂いておる教会では、出来なかったじゃないですか。いかにお恵みがそこになかったか、ということが言うなら言えるじゃないですか。だからここにお恵の水の中につければ開くとこう言う。ただそういう浸らせて頂いておるということです、皆さんが、私は分からせて頂かなければならん事。そのおかげにいわば立ち上がるということ。そういうおかげにご縁を頂いておると言うことに有り難しということになるです。それが御祈念会にもなりゃ、ご造営のいわば御用にもなりゃ。
さまざまな働きになってくるという、事にならなければ私は本当のことじゃなかじゃないだろうか、とこう思うのです。同時に私は、まぁこの写真を見せて頂きながら、もう本当に思うたんです。これはね、私が何時も申しますように、おかげの受けもの作れ、おかげの受けもの作れというでしょう。おかげの受け物さえ作ればですね、必ずおかげを頂けれるというのは、あれは椛目だけのものだということですよ。もうこれは、私は今日始めて気が付きました。
ね、この人なんか、例えば確かに、こういうおかげの頂けれるようなおかげも、受け物は持っておられたけれども、おかげを受けられなかったという事なんです。そうでしょう。ね、永年の信心させてもろうて、おかげの受け物を持っとるけれども、それをなら取り次いだ、その受け物の中に入れてやれる教会ではなかった、先生じゃなかったという事です。この人がご縁頂いて、おかげを頂いておる教会は。
してみると、私がまずおかげの受け物を受けろって、まずおかげの受け物を作れとこういう事はです、ありゃ椛目だけで、言うならば、まぁ、言えれる事だとさえ今日は感じました。そういう事になりやしませんですか。この方はもうそれこそ、実意丁寧な鏡のような方なのです、このおじいさんは私御本部でも、あの小倉の御大祭の時にもお会いしたんですけどもね、あれはやっぱり全国から引っ張りだこの、お話に来てくれといわれる程しのご信心を頂いておられるのですから。
だから、受け物は持っておられるけれども、これは私がもう十何年も前に頂いた事なんですけれどもね、ね天地の親神様の、例えばおかげをです、氏子に取り次ぐということは。金光大神の働きというものがご結界になされるということはどういうことかと言うと。お願いをなさる。神様の言わば、太陽、ここは丁度、ここにはですね、金光大神というのは丁度あのレンズ体のようなものでなかにゃならんとです。
神様は天、太陽の光がここに集中する、ご結界に。そして、氏子の巡りを焼ききってしまうだけの働きです。ね、現在こうやって私がくっと、黒いところが焼けるでしょうが。ね、そういう働きと同時にです、ね、そういう神様の特別なおかげ。これはもう信心させて頂かなければ、金光様のご信心じゃなかなければ、特別の御結界に生きた働きのあっておる所でなからなければ頂けないことなんですよ。
神様の働きをここに集中するというのだから。ところがです、今頃はここに集中するどころか、神様の思いはここに、ここにあってもです、金光大神の働きがあってもです、ここに例えば今度は、レンズ体の凹レンズです、こう引っ込んだレンズですよ、ああいう。のがここに座っておる事になるから、反対に、こりゃ散漫になってしまう、おかげが。ね、この黒い巡りを焼くだんじゃないです。
光は反対までにこうやって散らかってしまうと言う様な、いわばそういう働きしか出来てない事になって、信心を幾らしても幾らしてもだから、おかげが受けられんのはそうゆう事だというて、あのお知らせ頂いたことがあるんです。その事を私は今日改めてその中林さんの事から頂く、考えさせて頂いたですね。信心のおかげの受け物さえ作りゃ、おかげはちゃんと言わんでも頂くという事はあれはだから、言うならば生々とした御比礼の輝いておるお広前で言える事であるという事なんです。
いかに受け物を作っとっても頂けなかった。お広前には、ならお徳の水というのがたたえられておる。お広前でなからなければ開かんのだと。けれどもやはりそういうおかげの受けられるだけの受け物は持っておられた。それをここでのお取次を頂かれた。そこにおかげがある。奇跡的なおかげが現れたということになるんですね。ですからそういう、例えば事だから、まぁ確かに巡りのお取り祓いということ。
今日も、福岡の高橋さんがお届けをされますのに、年末の仕入れの事についてお伺いがあった。ね、去年はおかげを頂いてから、正月だけで四十万売り上げがあったと。お寿司屋さんで。ほれで、今年は、そのおー、まぁいわゆるその、ネタですたいね、お魚のいわゆる、そのお寿司の材料になるそれを、どのような風に。所がもう、つういっぱい仕入れといて下さいて頂いた。だから高橋さん考えたんですね。
はぁ今年の正月は、こりゃもう売れるぞ、というわけなんです。ね、ところがその実際あの、去年が四十万だったのに、今年は三十万しか売れなかったそうです。だからちょっと分からなくなったんですね、神様の働きというものが。所がです、それが五日になり、六日になり、今日になって見ていよいよ分からせて頂いたことはです、だからもう沢山、その魚を買い込んで、あの今、何て言うですかね、タッパみたいのが、こういったのがあるでしょう。あれに入れてから、冷蔵庫に置いてあるからもう、そんなら新鮮を、あれを保つ事が出来るわけなんですがね。
今日は大体あちらの、千代町の十日恵比寿でもう、こう順序だったら、もうそれこそ、どうするようにお参りが多い恵比寿だそうですね。だからもう今晩なんかはもう沢山材料がいるのにですね、全然仕入れなくていいというわけなんです。しかもですね、もう今年はですね、正月過ぎてから魚がずーと値上がりしとるちゅうこと。一例を言うと、こんな小さいですね、うに一箱が二百円でしよったのが、現在三百円しておるそうです。してみると、そろばんとって見ると、正月に三十万売れたようなこっちゃ、十万よけい売り上げたぐらいなこっちゃないだけのおかげを頂いておるということなんです。
やっぱりおかげは間違いないなぁ、と言うて、そのおかげも有り難いけれど、それよりももっと高橋さん、有り難いことがあるよって私が言うもんです。ね、例えば神様の仰せ通りに仕らせて頂いたら、ね、かいってその売り上げが少なかったと。しかもこんなにどっさり仕入れてどうするか、と言う時にです、神様の御都合に間違いないというてその難儀を頂いたら、それが巡りのお取り祓いになるて言うて私が。この方が有り難いて。要はここんところの頂き方がですね、どうしてじゃろうか、どうしておかげ頂かんじゃったじゃろうかじゃ、巡りのお取り祓いにはならんです。
久富、あの、勇さんの所がそうです。お願いさせて頂いてほうれん草まかせて頂いた。皆、もう立派に出来ても、自分かただけ入らなかった。そこは2人で信心が出来ておるとですたいね。おかげを頂いてこりゃ神様の御都合に違いはないですばい。それだけ例えばんなら、どれだけの種を植えたか知らんけどもです、それだけの巡りのお取り祓いを頂いたということになるでしょうが。これが有り難いとですよ。神様の仰せ通りに仕ったら、かえって芽が生えじゃったと。と言うような頂き方だったら巡りのお取り祓いにはならんです。おかげになっても。ね、そこんところの方が有り難い。
それから又お願いして、改めてまかれた。ところが今度は見事に生えた。時にはもう他所のほうれん草はしまいしもうちから、いうならあそこんとだけと言うようなことで、大変な高値で、さばくことが出来たというのですよ。だからそのこともおかげだけれども、巡りのお取り祓いを頂かせておるということの方が大事でしょうが。だから、「喜びで開けた道」と仰るのだからです。人が喜べないようなところに、こりゃ神様のご都合に違いは無いと喜べれる信心なんです。ね、
そういうようなことが出来れる、ならお広前がどこにもここにもほんなら、私はまぁ言うならば無いて言うこと。だからそこんところをです、先生のここの御結界に、引き出しにでも入れて置いて頂きたいとこう言うようなですね、いわゆる願いと言うものが切実にです、私は皆さんの心から湧いて来るようなおかげを頂いて、そして例えば御祈念会であろう、御用であろうと、言うことになる時に、その御用が私は生き生きとして生きて来るのじゃないだろうかとこう思うのです。
ここはやはり県外から沢山の人たちがお参りがある。今日言うような事なんかは、まあ、珍しいことだった。もう、だからあんまり沢山ですから、お昼を頂くことも出来んのです。ですからもうお茶だけ、今日は、もう私は昼を頂いたのは夕方の4時でした。ね、お届けがここでありよりましたけれども、ここお広前いっぱいですから、そのここへ長台を出してからお茶を上げました。
ね、そういう人たちが椛目の花ならばです。成るほどそれに残っておる椛目の地付きの、言うならここの、皆さんの場合はです、言わばその花に対する実じゃなからなければならないという事。そこでその実の自覚と言うものがです、どういう内容を持っておらなければならないか、と言うことをです、今日私は皆さんに申しましたところですけれどね。 どうぞ。